2012年7月28日土曜日

僕の話(高校時代まで)

僕は、京都市内の自営業を営む家庭に生まれました。
扱っている商品は、伝統芸能関係の商品でした。

母方の、曾祖父さんの代からある会社で、

昔は結構有名だったそうです。


僕の父親は婿養子でした。

母親には兄がいたのですが、ダウン症でした。

本来なら、長男に継がせる予定だったのがダウン症で生まれてきて、

次に生まれてきたのが母親で、そこで婿養子をとろうという事だったのだと思います。


昔はそこそこ流行っていた会社だった様ですが、

僕が小学生の頃にはもう借金まみれでした。

父親はあまり家に帰って来なくなり、

母親はカルト宗教にのめり込みました。


母親は、いつも仏壇(?)の前にいました。

ウチの母親が、友達のお母さんとちょっと違うというのは、

中学生くらいの時に気づきました。


家にいる時はTVを観てるか、仏壇の前で何かブツブツ言っていました。

小学生くらいの時、宗教団体の施設に無理やり連れて行かれた事も何度かあります。

酒鬼薔薇聖斗の事件があった時、

「加害者と被害者は源氏と平氏の生まれ変わりで、何代にも渡って殺し合っている」

という訳の分からない話を、何度も何度も聞かされました。


「先生(教祖?)が、何も無い所から火を点けたの!」

「今日お祭り(宗教関連の祭典)の最中、雲の形が鳳凰の形になってた!」

そんな話を毎日毎日聞かされ、

食事中には、教祖が説法をしている様子を収めたテープを聞かされました。


高校生になっても家は相変わらずの状態でした。

借金まみれなのにロクに働かない父親と、カルト狂いの母親。

僕は学校にも家にもあまり寄り付かなくなりました。

学校の友達とは、何だか自分が違う人種の様な気がして、馴染めなくなっていきました。


小遣いももらっていなかったので、

小中学生の時に、親戚からもらったお年玉を貯金していたものを切り崩して生活していました。

ですが、そのうち貯金も尽き、僕はアルバイトを始めました。

親からお金がもらえないし、もらいたくもなかったので、

時給のみでアルバイトを選びました。

僕が選んだのは、訪問販売のテレアポのバイトでした。


当時、訪問販売業界は、「教材ブーム」でした。

求人誌をめくれば、教材販売会社のテレアポのバイトの募集があふれていました。

平均時給は1200円くらいだったと思います。


「○○大学の学生なんですけど、家庭教師を頑張りたいと思ってまして云々」

こういう電話がかかって来た事があるという方も多いのではないでしょうか。

それが僕の生まれて始めての仕事でした。

当然、グレーな仕事だとは思っていました。

高校生やフリーターのアルバイトが、学生を装い、アポイントを取ります。

よくありがちな「無料体験学習」のアポイントです。

アポイントが取れた家庭に、「講師」を名乗る営業マンが行き、授業をします。

その中で、教材のセールスを行い、高額な教材をローンで購入させるという商売です。


ハッキリ言ってかなり悪どい商法で、摘発された会社も山のようにあります。

ですが、僕は楽しくて仕方がありませんでした。

良くない仕事だとは思っていたのですが、

自分で稼いだお金でご飯が食べれる事が本当に嬉しかった。

自分の父親とは違い、社員のみんなは必死に働いていました。

学校の友だちとは違い、バイト仲間も必死に働いていました。


高校の友達はみんな幸せそうに見えました。

両親がいる家庭も片親の家庭もありましたが、

みんな家族と仲が良く、

進路も割りと自由に考えている様でした。


僕は大学に進学という選択肢がありませんでした。

金銭的に無理でしたし、

奨学金は借金だという認識がありました。

当時、既に就職難という言葉を頻繁に耳にしていたので、

借金してまで大学行っても返せなかったら嫌だと思いました。


高校3年生の夏頃、

どんどんテレアポのバイトにのめり込む僕に上司が、

「就職後、ウチに来ないか」

と声をかけてくれました。


高校を卒業したら、家を出てちゃんと一人で生活をして行きたいと思っていた僕は、

卒業後、その会社に入社する事を決めました。


高校3年生の秋、

滋賀の支店への転勤がありました。

アルバイトで転勤というのも珍しいのかもしれませんが。

京都の本社ビルが改装工事の為、半年ほど業務が止まるという事でした。

僕は喜んで毎日滋賀県まで通いました。

毎日が充実していました。

学校へ行っても楽しくない、家にいても楽しくないという僕でしたが、

仕事だけは本当に楽しかった記憶があります。

決して仕事が出来た訳ではありませんが、

それでも自分で色々考えて毎日働きました。


ある日上司に、「埼玉の支店に転勤する事になった」と告げられました。

そして、「お前も来い」と言われました。

高校を出たら家を出たいと思っていた僕でしたが、

イキナリ他府県というのは少し戸惑いました。

でも、地元に何の愛着も持っていなかったので、

翌日には、「行きます」と答えていました。


そして、高校を卒業した日の夜に、僕は鞄一つで埼玉へ向かいました。

卒業後の打ち上げとか、そんな事に一切興味がありませんでした。

働いて、そのお金で生活をする。その事で頭がいっぱいでした。

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